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2024年4月21日日曜日

Surrender: 40 Songs, One Story – Bono

 U2のフロントマン、Bonoの自伝/回想録。買ってまで読もうとは思わなかったが、たまたま図書館で借りられることがわかったので読んでみた。

私がU2を初めて知ったのは、確か中学生の頃にテレビで「New Year’s Day」のPVを見た時だったと思う。祖父母の家の居間にいて、NHKの夕方の番組でU2のビデオが流れたのだった。極寒の雪の原野のようなところでU24人が演奏していて、見ているこっちまで寒くなるような映像だった。映像も目を引くものだったが、音楽もまた印象深かった。キャッチ―なピアノのイントロと独特なギターサウンド、インパクトのあるボーカル。一瞬にして好きになった。当時はインターネットも音楽配信サービスもなかった時代で、LP盤も値段が高かったから、好きな音楽が聴きたかったらラジオやFM放送でその曲がかかるのをただひたすら待つしかなかった。そうしてU2の曲も「I will follow」や「Sunday Bloody Sunday」や「October」や「Pride」と有名どころを知るようになる。そういえば、当時は買えなかったけれど、アルバム「War」のジャケットに写っている凛々しい少年の顔がどうにも気になって、後になって中古レコード店で購入した。本書によると、あの少年はBonoの幼馴染の弟だったそうだ。

アメリカに来てからはラジオで一日中音楽が流れ、そのころはMTVも最盛期だった。それが仇になり、私の中でU2は終わった。1987年の夏、U2は「The Joshua Tree」で全米を席巻し、ラジオでもMTVでもU2を聴かない、見ない日はなかった。いや、聴かない時間はなかった。一時間のうちに何度もU2の曲がかかった。この田舎の街にもU2が来るといい、チケットは30分足らずで売り切れた。その夏、私にどういう心理が働いたのか、うまく説明できないが、Overexposureこちらによると「人の目に触れすぎて新鮮味を失ってしまうこと」)だったのかもしれない。実際、その後のU2の曲も「New Year’s Day」を初めて聴いたときほどのインパクトを覚えるものはひとつもなかった。

Surrender: 40 songs, one storyは、Bonoのこれまでの人生を40曲のタイトルに分けて綴った自伝である。必ずしも時系に沿っているわけではないが、ダブリンの生家で育った幼少期と学生時代、U2結成とデビュー、結婚、アルバム制作とツアー、他のミュージシャンとの出会いや出来事、アフリカ救済チャリティやロビーイング、家族のことなどをかなり詳細に書いている。歌詞を書くこともあってか、詩や詩人にも精通しており、相当な読書家であることもうかがわれる。私が面白く読んだのは、ブライアン・イーノやFloodことマーク・エリスとの初期のアルバム制作の話だった。特にFloodDepeche Modeのアルバムもプロデュースしていて、素晴らしいリミックスをいくつも作り出しているから、ブライアン・イーノほど大きくページを割かれているわけではないが、私には特別な感じがした。そういえば、写真家のアントン・コービンも本書に登場するが、彼もDepeche ModeU2のビジュアルを担当している。

高校時代にラリー(U2のドラマー)の家のキッチンで結成されたU240年以上も同じ4人で続けられてきたのはメンバーの人柄や敏腕なマネージャーのおかげであったのだろう。Bonoが語る他のミュージシャンや著名人との逸話も面白い。切ないのはINXSのマイケル・ハッチェンスとの出来事だ。Nirvanaのカート・コベインが自死したとき、マイケルは「(スターダムに苦悩していたカートが)もう少し待てたら、楽になっただろうに」というようなことを言ったという。ところが彼自身も数年後に自死してしまう。その少し前にBonoはマイケルから生まれたばかりの娘のゴッドファザーになってほしいと頼まれるのだが、ドラッグに溺れて自暴自棄になっているマイケルを許すことができずに断わってしまうのだ。そして、それが直接の原因ではないにせよ、マイケルは自死してしまう。Bonoはこのことを激しく後悔する。その上で、自分には自業自得な問題に寛容になれない性質があると認めている。アフリカで生きたくても生きられない人たちを見てきた後に、裕福な人々が自死を選ぶことに怒りを覚えると。

この本を読むと、Bonoはロックスターでありながら、気真面目過ぎるほど真面目な人なのだということがわかる。敬虔なクリスチャンであり、中学生の頃に出会いデビュー直後に結婚した奥さんと子供たちを心から大切にし、スターダムと実生活とのはざまに葛藤を覚え、アフリカ救済に奔走する熱血漢。U2の活躍や名声の大きさからは考えられないほど、実際のBono10 Ceder Roadで育ったポール・ヒューソン少年のままなのだろう。

この本に登場する40曲にはBonoの様々な思いが込められている。それを知ってそれぞれの曲を聴くと、今までと同じ気持ちで聴くことはできない。もう、知らなかったことにはできないのだ。Bonoは私より少し年上だが、「New Year’s Day」を初めて聴いた中学生の時の熱い想いを思い出すとともに、これまでの長い歳月を想い、少し寂しい気持ちになった。

Surrender: 40 Songs, One Story

 

2022年11月7日月曜日

The Storyteller: Tales of Life and Music – Dave Grohl

 フーファイターズ(Foo Fighters)のドラマー、テイラー・ホーキンズが今年の春に亡くなった。突然の訃報に耳を疑ったが、その後しばらくはそのことに関して多く語られることがなかった。今年9月にフーファイターズが彼の追悼コンサートを行った時、彼の16歳の息子がMy Heroのドラムを担当して、そのパワフルなドラムで観客を魅了したことは大きなニュースとなった。フーファイターズのSNSをフォローしているわけでもないのに、私のSNSのフィードには様々なニュースソースからその動画が連日入ってきた。息子のショーン・ホーキンズにとって父テイラーはヒーローだったに違いない。そしてそれを見守るデイヴ・グロールは何を感じたのだろうか。

The Storytellerはニルヴァーナ(Nirvana)のドラマーおよびフーファイターズのフロントマンとして有名なデイヴ・グロールが、パンデミックで音楽活動ができなかった期間に書いた自叙伝である。昨年2021年後期に出版され、メディアからの注目度も高かったから、すぐにアマゾンからのお薦め本リストに入ってきた。買うつもりはなかったが、しばらくして図書館の電子書籍の蔵書を調べたら在庫がある。ただ、すでに何人もの予約が入っていたので「読みたい本」としてタグ付けをしておいた。そのまますっかり忘れていたのだが、前出の追悼コンサートの動画を見てこの本のことを思い出し、予約状況を確認すると、予約はゼロですぐに借りられる状態だった。

私が初めてデイヴ・グロールを知ったのは90年代の初めにニルヴァーナのドラマーとしてだった。80年代はMTVの隆興もあり、ミュージシャンにもキレイな人たちが多かった。ニューウエーブやニューロマンティクスは言うまでもなく、俗にヘアメタルとも呼ばれる数々のバンドもヴィジュアル重視だったように思う。ところが90年代初めになるとグランジが台頭してくる。その筆頭だったのがカート・コベイン(敢えてこう書く)、クリス・ノヴォセリック、デイヴ・グロールから成るニルヴァーナだった。それまでの煌びやかな音楽シーンから一変して、なんだかむさ苦しい人たちが出てきたなぁという感じだった。しかし、彼らは当時の若者の心をとらえて一躍スターダムにのし上がる。

そこからが私の知っているデイヴ・グロールなのだが、この本はそれ以前の出来事を含む彼のこれまでの人生を、音楽、出会い、家族を柱にして、数々のエピソードを交えたストーリーに仕上げている。

ワシントンDC郊外のヴァージニア州の中流家族が多く住む住宅地でごくありふれた少年として過ごしていたデイヴ少年は、ある夏、母親の大親友が住むシカゴを訪れ、パンク少女と化した従妹に場末のライブハウスに連れて行かれ、そこでパンクとの衝撃的な出会いを経験する。それが彼の音楽の原点となり、パンクのレコードを聴き漁り、本物のドラムが手に入らないから枕を叩いて憧れのドラマーを模倣し、DCのパンクシーンに顔を出すようになる。17歳の時に憧れのパンクバンドがドラマーを募集していると知り、オーディションを受ける。それがScreamでの活動の始まりとなった。両親を説得して高校を退学し、Screamのバンドメンバーとして年上のメンバーたちと一緒にツアーで世界中をまわり、故郷に帰って次のツアーの資金を貯めてまたツアーに出るということを繰り返していた。ある時、全米ツアーの最中に資金が続かず、DCに戻ることもできなくなり、しばらくLAに滞在せざるを得なくなった。その時にまだ一般的には無名だったニルヴァーナがドラマーを探しているという話を聞き、クリス・ノヴォセリックに連絡すると、すでに新しいドラマーが決まった後だった。ところが、カート・コベインがデイヴに興味を示し、ニルヴァーナのドラマーとして参加することになる。

ワシントン州の小さい1LDKのアパートにカートと同居し、納屋でリハーサルを繰り返し、アルバム「Nevermind」を発売すると、シングル曲「Smells Like Teen Spirit」がたちまちヒットする。彼らは時の人となり、一躍スターダムにのし上がるのだが、それに違和感を覚え、受け入れられなかったのがカート・コベインだった。かれは薬物に手を出し、27歳で夭折する。デイヴはこの知らせを受けたとき、悲しみで泣き崩れた。ところがこれは誤報で、カートはまだ生きていた。その後、彼は本当にこの世を去ってしまうのだが、その時にデイヴは同じ感情を呼び起こすことができなかったという。

カートの没後、何にも手をつけられなくなったデイヴはアイルランドの静かな場所でひっそりと過ごしていた。ある時、見るからにロッカーな青年が歩いているのを見かけた彼は、車に乗せて送ってあげようと思ったのだが、その青年が着ていたTシャツにカート・コベインの名前だったか顔だったか(うろ覚え)が描かれていたことで、耐えられずにそのまま通りすぎてしまう。それが、アメリカに戻り、のちにフーファイターズのアルバムに収録されることになる楽曲を作り始めるきっかけになったという。そうしてフーファイターズが結成されるのである。

ロックスターになったデイヴ・グロールはさぞや華々しい生活を送っていることだろうと思いきや、故郷の近くの田舎町に大きな家を買い、自分のスタジオを作ってアルバムを制作する。故郷への愛着を持ち続けているのだ。自分が有名になっても、憧れの先達ミュージシャンに会う機会に恵まれると、パンク少年だった時の気持ちが蘇るという。そして音楽がもたらしてくれた数々の出会いに感謝の気持ちを忘れない。

例えば、いつかのサマソニでリック・アストリーと共演したことの裏話では、イギリスBBC放送からイギリスのミュージシャンの曲をカバーして欲しいと依頼された時、たまたまリック・アストリーがサマソニに出演していたのを見て、「Never Gonna Give You Up」をリハーサルで弾いてみたら、コード進行がニルヴァーナの「Smells Like Teen Spirit」にそっくりだった。その後、サマソニのステージで演奏しているとステージ脇でリック・アストリーがフーファイターズのステージを見ていることにデイヴが気づいた。メンバーの誰かのソロのときにデイヴがステージ脇のリック・アストリーに近づいて、飛び入りの共演を頼んだというのだ。確かに今その動画を見ると、デイヴは「Smells Like Teen Spirit」を弾いている。そして、リック・アストリーの音楽は自分が聴いてきた音楽と違うジャンルのものだが、音楽にはこうしてかけ離れたもの同士の出会いを作る力もあると言っている。デイヴが共演してきたミュージシャンにはイギー・ポップやジョン・ポール・ジョーンズなど、ロック界のレジェンドも多く、彼はそれを幸運と呼ぶが、この本を読んでいると、幸運は向こうからやってくるものではなく、自分から引き寄せる物なのではないかという気がする。

アカデミー賞には毎年その年に亡くなった映画関係者をしのぶ演出があり、ある年にその演出の中でビートルズの「Blackbird」を歌ってほしいと頼まれた。世界中の人々が見ている中で自分にそんな大役が務まるのかと悩んだ末に、彼がこれまでにもモットーとしてきた「Fake it till you make it(できなくても、できるふりをする)」の精神で承諾した。そのしばらく前に娘の学校の行事で、娘が歌う「Blackbird」の伴奏をしたことがあった。アカデミー賞の舞台で緊張する中、デイヴは学校の発表会で娘がいかに勇敢だったかを思い出していた。

最終章はシカゴ・カブスの本拠地ウィグリー・フィールドでのコンサートを終えたデイヴがエモーショナルになるところから始まる。そのコンサートは彼にとって、円を完成させたものだったからだ。従妹に連れられて行った小さなライブハウスが球場の通りの向こうにあったのだ。彼の音楽はそのライブハウスから始まり、いつか自分もと夢を見て、今、通りの反対側の何万人も収容するスタジアムでのステージを終えたところだった。これまでもスタジアム級の会場で演奏したことはあったが、この球場は彼にとってかけがえのない場所だった。

自分が年齢を重ねたことはわかっているが、気持ちはパンク少年のままだといい、人生のシンプルな出来事を楽しんでいきたいと語っている。カート・コベインや、少年時代に一緒にパンクのレコードを興奮しながら聴いた幼馴染の死を乗り越え、そして、この本の出版後ではあるが、今また、「違う母親から生まれた兄弟」「親友」と呼ぶテイラー・ホーキンズを失い、悲しみや辛さも多く経験してきたはずなのに、この本にはどんなときにも前向きで、多くの出会いに感謝し、家族を心から大切にする最高にかっこいいデイヴ・グロールが描かれている。